夢心地と浮き沈み(桜田桜の日常25)
「桜、帰り支度はできた?」
晴夏の問いに、桜は「はい」と頷いた。
花岡はあっと言う間に完食して、食器も片付け終わった。後は帰るだけだが、桜はなんとなく中瀬先生が戻ってくるような気がして、少しそわそわしていた。
晴夏はそんな桜を見てチラリと腕時計に視線を落とし、「じゃあそろそろ帰ろうか」と言う。
「あ、帰っていいんですか?中瀬先生が、場合によっては親に連絡するって…もしかしたら話とかあるかと…」
「私もそう思って待ってたんだけど…あまり遅くなる前に君を家に送り届けたい」
「えっ!送り届けるって、俺をですか ?! 」
桜は驚くが、晴夏はそんな桜に不思議そうな瞳を向けた。
「だって君、さっきあんな目に遭ったばかりじゃないか。連中が待ち伏せしていないとも限らないからね」
「だ、大丈夫ですよ!いざとなったら走って逃げますし…」
「さっきあんな目にって、何の話だよサクラ。まさかお前…」
眉間に皺を寄せる花岡に、晴夏が腕組みしながら答える。
「そのまさかだよ。桜に抱きついてキスしようとした不届き千万な男共がいたんだ」
「はぁ~ ?! 共って、複数かよ!」
「ちょっ、違うって!先輩、事実を捻じ曲げないで下さい!」
「捻じ曲げてないよ。そういう目的だったに決まっているじゃないか。私だって、今すぐ桜に抱きつきたいくらいだし…」
「そっ、そういう事をサラッと言わないで下さい!」
「別にいいじゃないか、ハグするくらい」
「いいえ、ダメです。抱きついたら、余計な事もするつもりでしょう?」
あわあわする桜の代わりにきっぱりダメだと打ち消したのは、もちろん凛子だ。
「やだなぁ凛子君、私だって学校でそんな事するつもりはないよ」
「学校でって…それが理由で送るんですか。マジで中身男っぽいし。最初はスゲー美人だと思ったけど、すっごい残念美人じゃないすか。サクラ、気を付けろよ。でないと、家についてドアを開けて中に入った途端、ドアに押し付けられてキスされてそのまま押し倒されるぞ」
「成程、君はいつも彼女にそういう事をしているのか」
「俺はしてませんよ、理性的ですからね。野獣な先輩と違って。あー、ほんと最初はすごい美人だと思ったのに」
「そう言えば、私を見て固まっていたな。随分とビビっていたし」
「別にビビってませんよ!まぁ確かに、あの時は結構迫力がありましたけど。迫力って言えば、サクラもかなり…って、サクラどうした?」
応酬を繰り広げる晴夏と花岡の横で、桜は両手で顔を覆っていた。
「サクラお前、もしかしてさっき俺が言ったこと想像して悶絶してるのか?」
「!悶絶なんてしてない!」
桜は顔の覆いをパッと外して大声を出したが、すぐにプイッとそっぽを向いた。
「桜…」
うっとりとした声を上げる晴夏に、凛子が心底嫌そうな顔を向ける。
「またすぐそうやって目の色を変える」
「サクラ、お前マジで気を付けないと襲われるぞ」
「やめなさい、私は嫌がる桜を無理矢理なんて事はしないよ!いくら恋人でも、それはしちゃいけない事だ」
「…ホントにそう思ってます?」
「思ってるよ!それに、今はまだうぶな桜でいてほしいしね…」
晴夏の呟きに、凛子と花岡が顔を見合わせ溜息をつく。
「まあ、サクラが気を付けなきゃならないのは事実だな。何かあったら俺に言えよ」
それまで黙って成り行きを見守ってた七屋は、荷物を持って立ち上がると桜の背中をポンと叩いた。
「じゃあな、お疲れさん」
「お疲れ様です」
「お前、花岡だったよな」
「あ、俺も帰ります。先生と話があるみたいだし。じゃあなサクラ、今日はサンキュ。先輩もありがとうございました」
「おう。部活来れる時はよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします。サクラ、また明日な」
「うん」
「葛先輩もさようなら」
「ああ、気を付けて帰れよ」
実習室を出ていく花岡たちと入れ違いに、中瀬先生と桜の担任・木原先生がやって来た。
「あ、先生。やっぱりいらっしゃいましたか」
先ほどまでデレデレしていた晴夏の表情が、一瞬で引き締まった。桜もつられて緊張する。
「ごめん、待っててくれたんだね」
中瀬先生は一瞬微笑んで、先程まで花岡が座っていた席に腰を下ろした。
「桜田、さっきの件だけど。やっぱり、ご両親にご報告する事になったから」
「は、はい」
「まだ何かあった訳じゃないけど、気を付けるに越した事はないでしょ。君は一人暮らしだし、ご両親も心配だと思う。なるべく誰かと一緒に帰る、夜は出歩かない、戸締りはきちんとする。誰か訪ねて来ても簡単にドアを開けない。それから、何かあったらすぐに相談する事。私でもいいし、木原先生でもいいから。分かった?」
「はい、分かりました。えっと…ご心配をおかけして申し訳ありません」
ぺこ、と頭を下げる桜に、中瀬先生は軽く両目を見開いた。が、それは一瞬ですぐに笑顔になり、「よし、おりこう」と桜の頭をなでる。
「ちょっと先生、私の前でそういう事します?」
途端に、晴夏が不服そうな声を上げた。中瀬先生は「あはは」と笑いながら晴夏を見る。
「晴夏、嫉妬?」
「私だって、桜によしよししたいんですよ」
「うん、それくらいはいいんじゃない?あまり進み過ぎるのはどうかと思うけどね」
「あ…」
二人の遣り取りを聞きながら、桜は昼間他の人からも同じ事を言われたと思い出した。
「どうしたの、桜?」
晴夏にニッコリと問われ、桜は「迫田先生からも同じこと言われて…」と答える。
中瀬先生と木原先生がその言葉にピクリと反応したが、桜は気づかずに言葉を続けた。
「あの…俺って、そんなにだらしなさそうに見えますか?」
「え?」
「だってあの、先生方が揃ってそういう心配をされるという事は…その、俺がそういうのにだらしなさそうだからなのかと…」
恥ずかしそうに顔を伏せる桜に、中瀬先生は「違う違う」と否定した。
「あのね、桜田。正直言って、肉体関係を持ってるカップルなんて高校にいくらでもいるよ。でも私は、そういう事って焦るものでもないと思うから」
「…はい」
「それに桜田、今日あんな事があったばかりだし。なんか君って、ちょっと頼りないし」
「頼りないですか…」
ストレートな言葉に桜は軽く落ち込んだ。「だらしなさそう」と言われるよりはいいが、やはり嬉しくはない。
「晴夏、あんた桜田と家近い?」
「はい、かなり近い事がさっき判明しました」
「そっか、じゃあ気にかけてあげてね。あんたんとこ、お兄さんいっぱいいるし」
「はい、そのつもりです」
晴夏と中瀬先生はニッコリし合った。その『ニッコリ』には、言葉に表したこと以外のものも含まれているように見え、無言のうちに意志疎通がなされたらしい事に、桜はズキンとした小さな痛みを胸に覚える。
二人から目を逸らし、そっと左胸に手を当てた桜は、「よし!じゃあ帰ろうか」という晴夏の明るい声に顔を上げた。
「そういうことだから、桜。今日から毎日一緒に帰ろうね!」
「え!ま、毎日ですか ?! 」
「うん。私と帰るのは嫌?」
「い、嫌じゃないです!でもあの、送ってもらうのはちょっと…」
「どうして?あ、もしかしてさっきの花岡の言葉を真に受けてるのか?あれは冗談だよ」
「分かってますよ!」
それは分かっているが、しかしいつの間にか二人が仲良くなってぽんぽん会話しているのを見るのは、何だか少し切ない気がした。中瀬先生とだって、すごく信頼し合っているみたいだ。二人に嫉妬するのはお門違いだと分かってはいるけれど、それでも桜は、胸のモヤモヤを吹き飛ばしてしまう事ができない。
「ふふ、夢みたいだなぁ。桜と一緒に帰れるなんて」
「えっ…」
晴夏の言葉に、桜は心臓がドクンとなった。「夢みたい」だなんて、そんな大げさな…と思う反面、似たような心地である事に気がつく自分もいる。
「ほら桜、あまり遅くならないうちに帰ろう」
再び晴夏に促され、桜は頷いて立ち上がった。荷物を手に取り、中瀬先生と木原先生に頭を下げる。
「ご心配をおかけしました、ありがとうございました」
「いいえ、とんでもない」
「二人とも、気を付けて帰って」
「はい…」
「安心して下さい、木原先生!私の桜は私が責任を持って守ります!」
バンっと自らの胸を叩く晴夏に、桜は両目を見開いた。
王子様みたいだと思っていた晴夏の、かなり豪快な言動を目の当たりにしたから…だけではなく、先生たちの前で『私の桜』なんてサラッと口にしてしまう事に、とても驚いたのだ。
「せ、先輩っ」
「なぁに、桜。照れてるの?かわいー」
「……」
完全に年下扱い…と言うよりも子ども扱いされているようで、桜は赤面しながら考えた。
(もしかして…先輩が言う『好き』って、弟みたいで好きって事?)
そうではないはずだが、完全に否定もできない。
『桜、ごめん。どうやら私は、君に構いたいという気持ちを恋愛感情だと勘違いしていたみたいだ。まるで弟みたいで、世話を焼きたくなっていただけだったのに。君を異性として見るのはやっぱり無理みたいだよ、ごめんね』
近い将来、そんな事を言われてあっさりフラれる場面を想像して、桜の熱は一気に冷めた。まるで、頭から冷水をかけられたような心境だ。
赤かった顔がなぜか青ざめていく桜に、晴夏は教師二人を見た。苦笑している彼らに「帰ります」と頭を下げて、晴夏はそっと桜の手を握る。
ビクッ、と顔を上げた桜に、晴夏は優しく微笑みかけた。
「桜、帰ろ」
「……はい」
「では、さようなら」
「…さようなら」
「はいはい、気を付けて」
中瀬先生と木原先生に見送られ、桜と晴夏は調理実習室を後にした。
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