職員会議(桜田桜の日常24)
「校内で暴行事件未遂だって?」
語尾の跳ね上がった声に、料研顧問・中瀬は軽く首を竦めた。
「そこまで大袈裟なものでは…。本人達は、ほんの悪戯くらいの感覚だったようですし」
「だからこそ注意が必要なんだ。若者は軽い気持ちで羽目を外し、軽い気持ちで誤った道に入り易い。そうは思わないかね?」
「…仰る通りです」
部活が終わる一足先に、中瀬は先程の出来事を報告すべく、職員室へ向かった。
部長である晴夏には目配せだけで伝わった。彼女の存在は本当に心強い。
中瀬はこの学校へ来て三年目だが、バドミントン部の顧問の異動に伴い、料研と共に引き受ける事になったのは昨年度からだ。晴夏は副部長の時からよく部長をサポートし、とても頼りになる存在だった。「家族が多くて昔から祖母の料理を手伝っていた」そうで、料理の腕もかなりいい。中瀬が顧問の兼任を引き受けられたのは、彼女がいたからだと言っても過言ではない。
そんなしっかり者の彼女が、まさか新入生と付き合い始めるとは思ってもいなかった。
こう言ってはなんだが、桜田桜は決して超絶なイケメンではないし、背だって晴夏より低いくらいで、性格が大人っぽいという印象でもない。弟キャラ、可愛い系という形容がしっくりくる感じだが、そこが良かったのだろうか。果たして長続きするのか?部内でギクシャクなんて事がなければいいのだが…。
「中瀬先生」
「はいっ」
一瞬思考が逸れていた中瀬は、慌てて現状に意識を戻す。
話の内容が内容なだけに、職員室の真ん中で大っぴらに話す事ははばかられた。テスト期間でない限り、生徒の出入りもあるからだ。面談室で担任と学年主任、さらには教頭まで前にして、中瀬はかなり緊張していた。
最初は、とりあえず担任に報告するつもりだった。それが、間がいいのか悪いのか、彼はちょうど学年主任と話をしているところで、件の話はすぐに主任の耳にも入り、おまけにそこを教頭が通りかかって「それはどういう事かね?」と問われ、現在に至っている。
「それで、その三人組が誰かは分からないのかね?」
教頭の質問に、中瀬は「はい」と頷くしかなかった。
「桜田が駆け込んできた直後に確認に向かえば、犯人が分かったかもしれませんね」
学年主任の言葉に、中瀬は即座に頭を下げた。
「申し訳ありません!そこまで考えが至りませんでした」
「中瀬先生を責めている訳ではありませんよ」
主任はそう言うが、中瀬自身、彼女の言う通りだと思った。あの時すぐに確認に向かうべきだった。自分の判断ミスだ。多少皮肉を言われたとしても仕方がない。
「まあ、男同士だし、多少の取っ組み合い程度の事はあるものでしょう」
主任はあまり事を大きくしたくないのか、努めた軽い口調でそう言った。
「確かに、生徒間のいざこざはいくらでもあります。全てに教師が関わるのは無理な話だ。とは言え、見過ごすべきでない問題も中には存在する」
「――今回の問題は、それに該当しますか?」
教頭と主任が話す間、中瀬はちらりと隣に座る担任に視線を向けた。
二十代半ばの彼は、まだ教師になって二年目である。一年目に大した問題が起こらず平穏に済んでいたとしたら、今回のような事は初めての経験かもしれない。
(緊張して当然よね。三十路に入った私だってそうなんだから)
顔色の優れない彼は、表情だけでなく全身から萎縮しているのが窺える。
「先程書類で確認しましたが、桜田は中学生の頃、合気道部に所属していたようです。多少の事では、問題は起きないと見ても大丈夫なのでは?」
「そ、そうじゃないんです!」
主任の言葉を否定するように、担任が青い顔でふるふると首を横に振る。
「そうじゃない?履歴が間違っていると?」
「そ、そうではなくて!クラスの自己紹介の時に、言っていたんです。桜田は中学の頃、確かに合気道部に所属していました。でも、所属していたのは一年生の時だけなんです!」
「一年の時だけ?」
「はい…。顧問の先生が異動した後、どうしても後任の先生が決まらなくて、廃部になってしまったらしくて。それを聞いて僕も履歴書を見直したら、確かにカッコして一年って書いてありました。その後は陸上部に入ろうかと思ったけど、途中からは入りづらくて結局は帰宅部だったようです」
「成程。しかし、一年間でも経験のあるなしは全然違うのではありませんか?」
「そうでしょうか。三年間みっちりやっていたならいざ知らず…僕は不安です。特に体格がいい訳でもないですし。小学生の時に陸上をやっていて、脚は速いそうですが…」
「ええ、そうですね。それで今朝もちょっとした騒ぎになっていたようですから」
「すみません…」
担任の木原(きはら)は、しゅんとして亀のように首を竦めた。
「ですが聞いたところによると、今日はクラスで大騒ぎになったところを、桜田が叱って落ち着いたそうじゃないですか。大人しい子だと思っていましたが、そういう強い面も持っているようですし、下手に騒ぐより、少し様子を見る事にしてもいいのではありませんか?」
「でも、桜田は一人暮らしなんです。学校から十分くらいのアパートに住んでます。もし、もしもですけど、何人かで尾行して…なんて事があったりしたら」
オロオロする木原に、教頭が「落ち着いて下さい」と声をかける。
「そういう事もないとは言い切れない。生徒を疑う訳ではないが、我々は最悪のケースも想定して事に当たるべきです。今回の件は私から校長に報告しておきます。桜田には気を付けるように注意だけして下さい。一人暮らしなら尚更、夜には出歩かないようにという事も」
「分かりました…」
「ご両親にも、一応念の為に連絡はしておいた方がいいでしょう。事情を把握している中瀬先生にお願いします」
「把握している、という程でもないですが、分かる限りで、あまり親御さんが心配なさらないようにお伝えします」
「そうして下さい。ところで木原先生、桜田が住んでいるのはどのアパートかね?」
教頭の問いに木原が答える。「築四十年くらいの…」
「迫田(さこだ)先生が住んでいるところだ」
「えっ、そうなんですか?!」
教頭の言葉に、木原がパッと両目を輝かせた。
迫田は若い数学教師だ。学生時代には弓道の全国大会で優勝しており、弓道部の顧問をしている。
古風な黒縁眼鏡をしているが視力が悪いわけではなく、少しチャラそうなイケメンだと言われるのが嫌なのだと、前に懇親会でこぼしていた。ブルーライトカットも入っているというその眼鏡は、どうやら部活中には外しているようで、彼の素顔に女子部員達はキャアキャア言っているらしい。
中瀬も前に見た事があるが、眼鏡をしている方がいい男だと思う…というのは余談だ。
迫田は生徒にも人気があり、部活動での指導についても評価されている。そんな彼が同じアパートに住んでいると聞いて、木原だけでなくこの場にいる全員が少しホッとした様子だ。
「迫田先生は、桜田が同じアパートに住んでいる事を知っているのだろうか」
「そろそろ部活も終わる頃ですし、桜田が帰ってしまう前に呼んで話をした方がいいのでは?」
「そうですね」
教頭と主任の間で話が決まり、木原が迫田を呼びに行った。
少ししてやって来た迫田は弓道着を身につけたままで、いつもよりも引き締まった表情で格好よく見えた。成程、女子部員がキャーキャー言うはずだ。
経緯を聞いた後、「桜田が同じアパートに住んでいるとご存じでしたか?」と問われた迫田は、「知ってますよ」とわずかに表情を崩した。
「隣の部屋なんです。挨拶に来た時はずいぶん可愛らしい大学生だと思いましたが、うちの生徒だったので納得しました」
「じゃあ、桜田も先生が隣に住んでいると…」
「いえ、気づいてないみたいです。桜田が挨拶に来た時、眼鏡を外してたし髭も少し伸びていたので。学校で会った時の反応からしても気づいてないでしょう」
「そうですか」
「向こうが気づくまでは、こちらもあえて何も言うまいと思い黙ってたんですが。今のところ、規則正しい生活を送っているようです。夜中まで物音がする事もないし、誰かが訪ねてきて騒いだ事もありません。何かあったら訪ねるように、と言っておきますか?」
「いや、本人が気づくまで待ってもいいかもしれない。隣が教師だと知って気を遣い過ぎるかもしれないし、逆に頼りにし過ぎてもいけない」
「自分もいつもいる訳ではないので限りがありますが、なるべく気にかけておくようにします」
「ええ、お願いしますよ。では中瀬先生は、いったん桜田に話をしに行ってください。その後で、親御さんに御連絡を」
「はい、分かりました」
「僕も一緒に行きます。担任ですから」
こうして会議が終わり、中瀬は木原と共に指導室を出た。
何十分も経ったような気がしたが、時計を見るとそうでもなかった。とは言え、すでに片付けは終わっている頃だろう。晴夏が「話がある」と言っていたからまだ帰ってはいないだろうが、あまり遅くなってもいけない。
「すみませんでした、こんな事になってしまって」
歩きながら頭を下げる木原に、中瀬は内心首を傾げた。
「木原先生が謝る事ではないでしょ?」
「でも、ご迷惑をおかけしましたから」
「別にご迷惑じゃありません。だから、もう少し明るい顔をして下さい。そんな表情じゃ、桜田が不安になっちゃいますよ」
「そ、そうですね。迫田先生がお隣で、少しホッとしましたけど」
「それは私もです。でも、口は滑らせないで下さいね。桜田には黙っておく事になっているんですから」
「はいっ」
木原の返事が小さく廊下に響いた時、ちょうど調理実習室が見えた。