繋いだ手と告白と、初めての……(桜田桜の日常26)
調理実習室を出ると、晴夏が無言で桜の右手を握ってきた。
「せ、先輩?」
恥ずかし気もなく手を握るなんて、やっぱり弟みたいに思われてるんじゃ…という不安に駆られる桜に、晴夏は言った。
「ここの廊下、普段からひっそりしているし、帰りに待ち伏せなんてされたら危ないって、今までどうして気づかなかったんだろう」
「え…」
「私は部長失格だな」
「な、何でそうなるんですか?!」
「だって、部員の安全を確保するのも部長の仕事だろ?」
「それはそうかもしれませんけど…先輩が責任を感じる事でもありませんよ。何もされなかったし、何かあったとしても先輩のせいじゃありません」
いつになく落ち込んだ様子の晴夏に、桜は心配になって彼女の顔をわずかに見上げる。
もう外は薄暗い。廊下には蛍光灯が寂しげな光を放っている。
「でも、もしまた今襲われたら、怖いって思わない?」
「それは思いますけど…」
思わず即答してから、しまったと思う。こんなにハッキリ答えたら、ますます落ち込んでしまうかもしれない。
「でも、俺だって男ですよ!さっきだってちゃんと撃退しましたし!」
「うん、そうだね。桜は、私が思っていたよりもずっと強かったんだなぁ。合気道もしてたんだね」
まるで落ち込みを振り払おうとでもするみたいに、晴夏はそう言って笑って見せる。
なんだか無理をさせているみたいで、桜は少し悲しかった。
生徒玄関に着くと、どちらからともなく立ち止まる。学生の作品だという少年と少女が並んだ像をなんとなく見つめながら、桜は口を開いた。
「合気道は、中一の時しかしてませんでした。本当はずっと続けたかったんですけど、顧問の先生が異動されてから、どうしても後任の先生が決まらなくって」
「……そうだったの?」
「はい。でも、うちの兄とか姉って、結構心配症で。俺が一人暮らしする事が決まって、兄からは痴漢に遭った時の対処法を叩き込まれたし、姉からも、何かあったらいけないからって防犯ブザーを渡されて。必ず持ち歩けって念を押されてて、今もカバンに入ってるんです。だからその、俺は大丈夫です」
「…そう?」
「はい。だから、先輩が俺を送ってくれるっていうのは、遠慮したいです。俺が送るべきだと思いますし、送るなら俺が……」
彼女に送ってもらうというのはどうしても違う気がして、どうにか断らなければと思っていたのだが、そこから自然な流れでカッコよく『俺が送ります』と言えない自分に、桜は嫌気が差しそうだった。
(手だって、繋いだの先輩からだし……)
桜はそっと、触れ合っている手に視線を落とす。今朝は無我夢中だったからとっさに掴んでしまっただけだった。自分から彼女と手を繋ぐなんて高度な事、再びできる日はちゃんと来るのだろうか。
「桜。もしかして、手繋ぐの嫌だった?」
「え?」
桜はとっさに顔を上げた。思ってもみなかった言葉は、すぐに理解できずに一度頭の中をぐるっと回る。二周目で意味に気づいた時、桜がそれに反応して口を開くよりも早く、晴夏が「ごめん」と謝った。
「やっぱりこういうの、フェアじゃないよね」
手を離そうとする晴夏に、桜は慌てる。
なぜだか分からないけれど、今この手を離してはいけない気がした。
「えっ……桜?」
思わずギュッときつく握ってしまった桜に、晴夏が戸惑いの声を上げる。
「俺、嫌じゃありません。先輩と手繋ぐの…」
「……ほんと?」
「ほんとです。先輩は、俺のこと好きって言ってくれたけど、その、俺も先輩の事、その……」
頑張れ桜、好きって言え!
心の中ではそうやって自分を奮い立たせようとするが、実際に行動する自分はとても気弱で、好きの『す』さえ言う事ができない。
「俺、その、先輩の事…料理する手が素敵だなぁって……」
ああ、何を言っているんだ。そんなこと言うはずじゃなかっただろ!
「野菜刻むところとかすごいし、カッコいいし、俺もいつかあんな風にできたらなぁって……」
違う、先輩を好きだって言うんだよ!これじゃあただ憧れている事を告白しているだけだ。
「だからその俺、先輩の事っ……」
「うん、ありがとう」
「……へっ?」
まだちゃんと言えていないのに『ありがとう』って、どういう事?
桜が戸惑っている間に、晴夏はギュッと繋いでいた手を緩めて、スッと引き抜くように離してしまった。
「あ…」
どうしよう、ちゃんと気持ちが伝わってなかった?好きって言えなかったから……。
このままフラれてしまうような気がして焦る桜に、晴夏は小さく溜息をつく。
(やっぱり嫌な流れ…。まさかこのまま……)
別れよう、そう言われたらどうしたらいい?
(分かりましたなんて、俺そんな事っ…)
言えないよ、と思ったのと、晴夏が近づいてきたのは同時だった。
(……え?)
ちゅっ、と音がして、唇の端っこに、そっと優しく触れられた。
ほんの一瞬だったけれど、温かくて柔らかい、彼女の唇に。
「え……え?」
「ごめんね、桜。付き合って初日からなんてダメだ、絶対に我慢だって言い聞かせてたんだけど――」
――君が可愛すぎて我慢できなかったよ。
ふわりと耳元に顔を寄せて続けられた言葉に、桜は一気にカッと全身が熱くなった。
「まぁでも、端っこだから許してね?それと、君の精一杯の告白はちゃんと受け止めたから、もう離れてなんてあげないよ」
「へっ…」
「さっきの、告白でしょ?」
今度は目元をのぞき込まれ、桜は無言で頷いた。こんな至近距離で見つめられて恥ずかしいけれど、それよりも、ちゃんと告白だと分かってもらえた事が嬉しくて、幸せで、とても温かな気持ちになった。
「私は、桜のこういうところも好きだよ。知れば知る程……」
何かを言おうとして、しかし晴夏は言葉をのみ込む。
「そろそろ帰ろうか、遅くなっちゃうからね。本当はこのまま桜を抱っこしていたいけど」
(……抱っこ?)
一体何の事、と思った桜は、ふと我に返った。
「へっ、うわぁあ!」
桜は慌てて手を離し、晴夏から離れる。
いつの間にか自分でも気づかないうちに、桜は彼女のブレザーをギュッと握ってしまっていたのだ。
それも、胸の辺りをである。今日は色々あったが、それにしても色々あり過ぎだ。こんなの恥ずかしすぎる!
「あ、残念。せっかく桜が可愛い乙女モードだったのに」
「ななななな、何を言ってるんですか?!」
「何って、桜の事だよ。ふふ、首まで赤くなっちゃって。私、目が良くて良かったなぁ。薄暗くっても、桜の表情の一つ一つを、見逃さずに見る事ができるもの」
「そ、そんなのいくらでも見逃して下さいよ!」
思わず喚く桜に、晴夏は「へえ~」と意地悪そうな声を上げる。
「だったら桜は、私がさっきの告白にも気づかずにいた方が良かったのかな?」
「えっ」
「桜は、私に節穴でいて欲しいんだろ?もしそうなら、さっきの告白も私はスルーしちゃってただろうなぁ」
「そ、それは困りますけどっ…」
「けど、何?」
「だからその、たまには気づかないでいて欲しい時だってありますからっ…」
しどろもどろの桜に、晴夏は小さく吹き出した。
「ははっ、冗談だよ。桜がムキになるから、ついからかいたくなっちゃっただけ」
「だ、だけってそんなの…」
「私の桜は、本当に可愛いなぁ。乙女チックだし、女の子より女の子らしいし」
は……?女の子より女の子らしい?
何の事?と睨もうとする桜に、晴夏はふふっと声をこぼす。
「そんな不服そうな顔をしてもダメだよ。恋愛に関しては、桜はかなり女の子っぽいからね。自覚してないの?」
首を傾げられ、桜はついカッとなった。
「そんなの知ってます!先輩のせいで!」
耳元で『可愛すぎる』なんてささやかれて、嬉しくてホワンとしてキュウゥゥンとしてしまう自分は、やっぱりかなり女の子っぽいのかもしれないって自覚したよ!
でも教えてあげるもんか!と思った桜には、つい今しがた、まさしく白状してしまったところだと気づく余裕は少しもなかった。
「桜、怒らないで?拗ねてる桜も可愛いけど、またキスしたくなっちゃうよ」
「はぁああ、何でそうなるんですか?!」
「純情な桜君と違って、おねーさんは結構エッチなんだよね。知ってるでしょ?部活中だって、グループのお姉様方と、ヒップの話で盛り上がってたしね?」
「あ、あれは別にそんなんじゃ!」
「桜のお兄さんやお姉さんの気持ち、よく分かるなぁ。桜の魅力的なお尻が目の前にあったらついつい触りたくなっちゃうから、痴漢対策はやっぱり必要だよね」
「……!」
もはや何と返していいのか分からず、桜はパクパクと金魚のように口を動かしていた。きっと顔も真っ赤だろうから、金魚みたいなのは口だけじゃないかもしれない。
「分かった?桜は自分で思ってるより、ずっと可愛くて、ずっと魅力的なんだよ。だから決して油断しないように。何かあったら隠さずすぐに相談する。いいね?」
「はい…」
「よし、いい子」
さっきまでの甘い雰囲気はどこへやら、こうしてよしよしと頭を撫でられるとやはり姉と弟のような、先輩と後輩としての関係性しか見当たらないみたいだった。
「お、いつの間にか暗くなってる。早く帰ろう。いやその前に、春(しゅん)に連絡してみるか」
「春…?」
それはもしかして春菊先輩の事では?
「あ、うん。桜にはまだ言ってなかったよね、ここに双子の兄貴も通ってるんだ。文芸部の部長やってるんだけど、結構遅くまで活動してるからまだいるかも」
「文芸部の部長なんですか?」
「うん、そうだよ。あいつあれで、小説で賞とった事があるんだ。それでプロとしても執筆してるんだけど、文芸部では他のペンネームで活動してるんだ」
「え、先輩ってそんなにすごい人だったんですか?!」
昼間会った時は妹想いだけどかなり変わった人というイメージしかなかったので、『プロの作家である』という事実に桜はかなりの衝撃を受けた。
「あれ?桜、春に会った事あるの?」
「え、どうしてですか?!」
反射的に答えてしまってから、しまったと思う。この慌てぶりでは、肯定としか受け取れないだろう。
「やっぱり会ったんだね。いつ、どこで?変なこと言われなかった?」
「い、言われてません!妹を泣かすなとしか……」
桜はやはりしまったと思った。これは、言ってしまってはまずかった事のような気がする。
もうこれ以上はボロを出すまいと、桜は晴夏に言った。
「そんな事より、帰りましょう!」
「うん、でも春が来るから待ってくれる?連絡したら、ちょうど帰るところだからすぐに来るって」
ほら、と、晴夏がスマホの画面を桜に見せるが、正直、内容なんて頭に入ってこなかった。
(ど、どうしよう。本人を前にしたら、ますます下手なこと言っちゃいそう…!)
昼間の事は、晴夏には秘密だと言われているのだ。それなのにこれ以上余計な事を話してしまわないように、極力黙っていた方がいいかもしれない。
(俺、誤魔化したりするの苦手なんだよな…)
昔から、嘘をついてもすぐにバレてしまう。目が泳いでいるから一目瞭然らしいのだが、はぐらかしたりするのも得手ではない。自分でもつくづく、不器用な人間だと思う。
(あんまり黙り込んでるのもおかしいし、無難に会話しなきゃ…)
思わず溜息をつきそうになった時、階段を下りてくる足音が響いてきて、桜はドキリとした。
(ああっ、来る!)
別に悪い事をしている訳でもなんでもないのだからこんなに怖がる必要はないはずなのだが、バックバクと早くなる心臓をどうにもする事ができない。
胸に手を当て深呼吸している自分の隣で、実は晴夏がきゅうぅんとしている事など、知る由もない桜だった。