勘違い(桜田桜の日常29)
夜九時、携帯電話が鳴った。
「はい」
『桜、大丈夫か?』
父の第一声は、とても優しい声だった。それでいて少し不安そう。
「うん…ごめんなさい」
『どうして桜が謝るんだ。心配する父さん達の反対を押し切って、一人暮らしを始めた事に対する謝罪か?』
「そうじゃなくて、心配かけてしまって……」
『辛くなったんなら、帰って来てもいいぞ。こっちの学校に転校すればいい。まだ五月だし、そこまで名残惜しくもないだろうし』
「ダメだよ!」
咄嗟に叫んでから、桜はしまったと思った。父は心配してくれているのに、今のはまずかった。
『学校で絡まれたって聞いたぞ。本当に何もなかったか、父さんには隠さずに話しなさい』
父は滅多に声を荒らげない。きつい物言いをすること自体が少ない。その代わり、ここぞという時にはいつもより声に重厚さが増し、迫力がある。こういう時の父には逆らえない。
『本当は、抱きつかれたりチューされたり尻を触られたりしたんじゃないか?』
「されてないよ!」
『本当に? 桜の尻は父さんから見てもぷりんぷりんだぞ。母さんも若い時はぴっちぴちで可愛くて……桜は母さんに似てるから、正直心配だ』
「せ、先生にはちゃんと本当の事を話したから、父さんが聞いてる話にも間違いはないはずだよ!」
『そうか? 先生の話では誰もいない放課後の廊下で三人に待ち伏せされて絡まれたんで、桜が反撃して一人投げ飛ばしたって事だったが』
「うっ」
『いや別に、責めてるんじゃない。むしろよくやった。数人がかりでセクハラなんて、最初はおふざけのつもりでもエスカレートする危険性だってあるんだから。桜が頑張って撃退して父さんは嬉しい』
「うん…でも廊下だったから、加減はしたけど痛かっただろうなって」
『加減したんならせいぜい打ち身だ。痣くらいできるかもしれんが、三人で一人に絡んだんだ、それくらいは仕方ないだろう』
「うん…」
『でも、今後はよく気を付けるんだぞ。誰からでも飲み物や食べ物を貰ったりしたらダメだし、相手はよく見極める事』
「食べ物を貰ったらダメって…?」
『睡眠薬を仕込んで、眠っている間に襲われたりするかもしれない』
「ま、まさか! 睡眠薬なんてどうやって」
『だから心配なんだ』
父は電話の向こうで深く溜息をついた。
『高校生にもなれば、どうにか入手できるかもしれないぞ。家族が睡眠薬を処方されている事も有り得るし、それなら一錠くすねて来るぐらい訳ない』
「そ、それは確かに有り得る事だけど……」
『最近は加減を知らない人間が多い。気を付けるに越した事はない』
「はい……」
『もしもまた何かあったら、その時はこっちに戻る事も検討するから、そのつもりでいなさい』
「……はい」
『嫌な事があったのに帰りたくないなんて、早くも好きな子ができたか?』
「えっ!」
あまりにも図星で、桜は思わず上ずった声を出してしまった。
『なんだ、やっぱりそうか。そんなに可愛い子なのか』
「えっあのその、可愛いと言うよりはカッコいい……」
父からこんな事を訊かれるとは思ってもいなかった桜は、動揺して思うままの事をつるっと口にしてしまった。
『カッコいい?』
「う、うん、カッコいいよ。キリッとした目がカッコよくて綺麗で、長い指で野菜を刻む時なんかものすごくカッコよくて……」
『…そうか。という事は、先輩だな?』
「う、うん。部長だよ」
『ほう。ちなみに、部長さんの名前は?』
「葛晴夏さんだけど……」
『かつら、せな…。なるほど、凛々しそうな名前だな』
「そ、そうかな」
桜は単純に嬉しくなった。好きな人が褒められたのだ、嬉しくないはずがない。
『もしかして、その先輩と付き合うのか?』
「えっ、何で分かったの?!」
『えっ、本当にそうなのか!』
自分から言っておいて、なぜか父はひどく動揺した声を上げた。
「そこまで驚かなくても…。告白されたんだ、一緒にいたいって…」
そこまで言って、桜は照れた。
『そ、そうか』
心なしか、父の声も照れくさそうに聞こえる。
「……ビックリした?」
『そ、そうだな。桜は奥手だし、恋人ができるのはまだ先の話だと思っていたから』
「奥手って……まぁ確かに、今までそこまで好きな人はいなかったけど」
『まさかと思うが、実はもうチューとかエッチとかしてるんじゃないだろうな』
「へっ?! まさか、今日告白されたのにそんな事してる訳――」
そこで、桜は言葉に詰まる。
(つ、付き合い始めた初日にキスされた!)
唇の端っこだったが、キスはキスだ。
思い出した途端、桜はかぁっと全身が熱くなった。キスだけじゃない、『君でいっぱい』なんて言われた事も要因の一つだ。
『こら桜、どうして言葉に詰まるんだ。もうエッチしちゃったのか』
「してません!」
『じゃあキスは?』
「そ、それは先輩から……!」
つい言い訳がましく口走り、桜は瞬時に自己嫌悪に陥った。先輩のせいにするなんて…いや事実ではあるが、それでも他に言い方があったはずだ。
『ちなみに、付き合い始めたのはいつからだ? そんな大切な事を、父さんに内緒にしてたのか』
「ち、違うよ! 告白されたのは今日で、付き合う事になったのも今日からで……!」
『じゃあ、付き合わない内からキスしてたのか? それとも、付き合う事になったその日からキスされたのか』
「そ、それは……今日です」
『今日告白されて、今日キスされた?』
「はい……」
父の声は怒ってはいないが、それでも問われるがままに答えてしまう凄みがある。
打てば鳴る楽器のように桜は答えてしまって、内心ハラハラしながら父の言葉を待つ。
(別れろって言われたらどうしよう……)
そんなに手が早い女なんかダメだ、とか。反対されたら、自分はどうするんだろう。
『桜……』
「は、はいっ!」
目の前に父はいないのに、桜はぴんっと背筋を伸ばした。
『今度の連休、そっちへ行くからその先輩に会わせなさい』
「えっ?!」
『何がえっだ、心配に決まってるだろう。そうでなくても桜はのんびりなところがあるし、付き合い始めたその日にキスするなんて結構な肉食系みたいだからな、その先輩は』
「そ、それはっ…」
『否定できないだろう。明日には押し倒されるかもしれんだろ、部屋には上げるなよ』
「えっ、えっ」
『何だ、さっそく部屋でいちゃいちゃエッチな事するつもりだったのか?』
「ち、違います! エッチはまだ早いし、そもそも俺まだ高校生になったばっかだし……!」
『奥手な桜はそうでも、先輩は違うかもしれんだろ。とにかく、父さん達がその先輩に会ってみるまで、部屋には連れて来ない事。隠してればバレないなんて思うなよ、反応ですぐに分かるからな』
「……部屋には連れて来ません」
『よし。じゃあ、相手にもちゃんと伝えておきなさい』
「はい…」
『じゃ、あまり遅くならないように寝なさい。おやすみ』
「おやすみなさい…」
終了ボタンを押して、桜は茫然とした。
何だか、思っていたのと違う。
彼女ができたと聞いたら驚きつつも喜んでくれると思っていたのに、あんなに警戒されるとは。
「俺、何か変なこと言っちゃったのかな……」
彼女ができた事はちゃんと伝えるつもりだったが、まさかあんな形で父から切り出されるとは思ってもみなかった。驚きすぎて、変な事を口走っていたのかもしれない。よく覚えていないが。
「あぁ、先輩に何て話そう…」
とりあえず「即別れろ」とは言われなかったので良かったが、会ってみてダメだと言われる可能性もある訳だ。
「いやいや、先輩はしっかり者だからそんな事には……」
いや、逆に『大人だからこそ』反対される事もあるかもしれない。
『うちの桜は、まだ子どもなんです。大人なあなたには合わないだろうし、別れた方がお互いの為だ』
淡々とそんな事を言う父の姿が容易に想像できてしまって、桜は肝が冷えた。
「うぅ……やだよ先輩。明日ちゃんと話さないと……」
それとも今日のうちに連絡を?
いやいや、もう夜だしやっぱり話すのは明日ちゃんと面と向かっての方が…。
桜はケータイを見つめながら、しばらくの間ひとり悶々としたのだった。
★ ☆ ★ ☆
「ちょっとお父さん、どういう事?」
電話が終わるなり、遣り取りを聞いていた長女の梅が父ににじり寄った。梅は女子大生で、家から大学に通っている。
「桜がチューやエッチって、どういう事よ」
「エッチはまだらしい。でもキスはしたそうだ」
「はあっ?! あの奥手の桜が?!」
「桜は奥手でも、相手が年上の肉食系だからそういう事もあるだろう。部屋で二人きりにならないように言ったが、桜も相手に惚れてるみたいだしどうしたもんか…」
「桜が惚れてる?! その肉食系に?!」
「ああ。しかも相手は男らしい」
「はあーっ?!」
「どういう事?!」
「お兄ちゃんが男の人と?!」
家族は一気に騒然となった。
「ひたすらカッコいいと言ってたぞ。目がキリッとしてカッコいいとか、野菜を切る指が長くて素敵だとか料理する姿が凛々しくてカッコいいとか…」
そこまで言って、父は言葉を切った。
「いや、凛々しいとは言ってなかったか。とにかくカッコいいを連発してた」
「そんなにカッコいいの?!」
「らしい。名前は『かつらせな』というそうだ」
「かつら、せな……」
「せなって、今時は女子でもいるんじゃ…? いやでもカッコいいを連発してたなら、やっぱり男子か…。少女マンガ嬉しそうに読んでたけど、やっぱり心が乙女なのね桜は…」
梅の言葉に、「お兄ちゃんが…」と、桃が愕然とした声を出す。
「もしかして、私がお兄ちゃんに少女マンガ貸しちゃったから…? 王子様との恋に憧れて、学校の王子様みたいなイケメンな人を好きになっちゃったのかもっ」
動揺する桃に、父が「それは関係ないだろう」となだめるように言う。
「仮に多少影響があったとしても、それはあくまでキッカケに過ぎない。もともと桜にそういうところがあったというだけの話だ。桃の責任じゃないさ」
「う、うん…」
「はあ…。桜は基本的に不真面目な事が嫌いな子だし、相手も真面目な青年だとは思うが……柳が帰って来たら相談するか」
「そ、それがいいわね…。桜は柳っ子だったし、柳なら何か知っているかも」
「そうだな…」
こうして桜の知らないところで、家族の勘違いや不安はどんどん深まっていった。