かわいい璃々の悩み (短編連載第三回)
「璃々、結婚を前提に付き合ってみない?」
ある日のデートで、付き合い始めて二か月の彼氏からそう言われた。
「…早くないかしら」
璃々が呟くように答えると、彼は「でも、俺たち同じ職場だし、知り合ったのはもう二年も前だよね」と言う。
「それはそうだけど…」
「俺の事が嫌い?そうならそう言っていいよ。それに、今すぐ結婚してくれって言ってる訳じゃない。あくまで前提だから、無理だと思うなら断ってくれていいから」
「…ほんとに、それでいいの?」
「そうするのがいいと思うんだ」
彼の言葉に、璃々は小さく頷いた。
「わかった…考えてみる」
「うん、ありがとう」
彼は、嬉しそうに微笑んだ。
それが璃々の心に、チクリと棘のように刺さる。
きっと、私には結婚は無理。そう思うのに、今度こそ長続きするかもしれない、今度こそ結婚できる男性かもしれない、そんな期待を胸に抱いてしまう自分がいて、なんて浅ましいんだろうと思ってしまう。
「でも…私、無理かもしれない…。期待はしないで」
いずれ裏切ってしまうかもしれないのならば、期待させない方がいい。
そう思って口にした言葉だったけれど、彼は怪訝な顔をした。
「君は、一体何に怯えているの?」
「え…?」
「君はたまに、俺からふっと目を逸らすよね。今だって、視線が定まってないよ。何か不安があるからだろ?」
「それは…」
璃々は、どう答えたらいいのか分からなかった。
今まで、こんな風に突っ込んできた人はいなかったからだ。
「俺の事が嫌いなわけじゃないよね。君は誰とでも付き合うなんて言われているけど、根本的に無理だと思う相手とまで付き合うわけじゃないだろ?」
「うん…」
璃々は小さく頷いたが、彼の顔を見る事ができない。
「璃々。俺は、君に無理はしてほしくないから、今まで黙ってきた。でも一つだけ、言わせてもらうよ。君は、人との距離をおきすぎる」
「距離…」
「目を合わせられないのは、だからだよね。人と距離をおいて、線を引いて、ここから先へは入ってこないで、って無言の内にそう言ってる。親しき仲にも礼儀ありって言うし、線を引く事自体は悪くないと思うよ。誰に対しても、それは必要なものかもしれない。ただ、その線をどこに引くかが大切なんだと思う。君の場合、線への距離が遠いんだ。だから相手も、君への距離を感じてしまう。今まで、彼とうまくいかなかったのはだからだよ」
「そう…かもしれない」
璃々は、不思議なほどにすんなりと彼の言葉を受け入れている自分に驚いた。
結構厳しい事を言われたと思うのに、なぜか拒否反応が起きない。それどころか、ただ優しいだけのこれまでの彼氏よりも、ずっと信頼できる人だと思えた。
(あ…これって、私が望んでいた事だ…)
昔はよく思った。たった一人でいいから親友がほしい。時にはケンカもし、厳しい事も言い合える、そういう存在が一人でいいからいてほしいと。
それはまだ実現しておらず、だからこそ璃々は、もう無理なのだろうと諦めていた。そして、手に入らないだろう夢は見ると辛くなるから、夢見る事さえもやめて、心の奥深くへ封印した。
今度こそ長く付き合いたい…そう思うのは、違っていたのかもしれない。
なぜなら、璃々は本当に大切な部分から目を逸らしていたのだから。
彼がとても大切な事を思い出させてくれたのだと思うと、璃々は彼を見ずにはいられなくなった。
「あの…ありがとう」
「え」
璃々の言葉に、彼は驚いて両目を見開いた。
すっと細い目がいつになく大きくなっていて、璃々はなぜだかおかしくて仕方がなくなって、小さく吹き出してしまった。
「え?な、何?俺、何かおかしなこと言った?」
目を白黒させる彼に、璃々は「ううん」と頭を振る。
「ただ…久しぶりに、楽しいなって」
「え…」
「あなたみたいに、厳しい事も言ってくれた人って初めて…。それが、嬉しかった」
「あ、そ、そっか…。ならよかった」
しかし彼は「よかった」と口にしながらしどろもどろで、頭に右手をやる。
「はは…。なんか、予想と違う反応だったな…。俺、きっとフラれるって思ってたのに」
「え…どうして?」
「いや、だって。俺って結構、ウザがられる事あるからさ。『分かったようなこと言わないで』って言われるのがオチだと思ってた。結婚を前提に…って話だって、多分君は拒否するだろうと思ってたし」
「じゃあ、どうして…?」
「それは、このままじゃ何も変わらないと思ったから。君は遠いままで、そのまま終わりになってしまうって…。それならたとえ玉砕しても、君に怒鳴られたとしても、遠いまま終わるよりいいと思ったんだ。もし君が怒鳴ってくれたら、その分だけ、俺は君に近づけたって証だって…。変だよな、バカだよな」
ははは、と乾いた笑い声をもらす彼。
「嫌いに…なったかな」
おまけにそんな事まで言い出すので、璃々は苛立ちを覚えた。
「どうして嫌いになるの?私は…ずっと、あなたみたいな人がほしかったのに」
「えっ?!」
驚いてのけ反る彼に、「変な意味じゃないの」と、璃々は彼の目を見つめる。
視線が合うと、慌てて逸らす事も少なくなかった、彼の瞳。
それが今は、こうして見つめる事ができるだなんて…人って、とても不思議な生き物だ。
どんな言葉が心の薬になり、勇気を与えてくれるか分からない。
「私は、苦労知らずで悩みなんて何もない女だって思われてきた。でも、本当はずっと苦しかった…。家族はいつも大切にしてくれるし、だから私もいい子でいたいと思って、手伝いもたくさんしたし、勉強もした。そしたら、周りはますます私を褒めてくれるの。『本当にかわいくていい子だね』って言われて、嬉しいけれど、どこか悲しくもあった。時には、厳しく叱ってほしいって思った。よく叱られている兄が羨ましかった。でも私は臆病だから…反抗する勇気もなかったの。精一杯もがいてみればよかったのに、それもしなかったの。だから…だから、私はバカな女なの」
「璃々…」
「どう…?嫌いに、なってしまった?」
そう問いかけながら、目を逸らさずにいられる事に、璃々は驚きと小さな興奮を覚えていた。
こんな事は初めてだ。こんなに大胆な自分を、璃々は今まで知らなかった。
「嫌いじゃないよ…。俺は璃々が好きだからダメ元で告白したし、ダメ元で結婚を考えてほしいって言ったんだ。その上、璃々が思い切って一歩を踏み出してくれたのに、嫌いになんてなるはずがないよ」
「ほんと…?」
「うん」
頷く彼に、璃々は心の中がじぃんと温かくなっていくのを感じた。
「璃々…」
名前を呼ぶ彼の声が近くなり、そっと頬に触れられた。
彼の手から温もりが伝わり、いつもならビクリと体を震わせてしまうのに、今は不思議と恐怖もない。
静かに目を閉じると、彼が触れているのとは反対の頬に、そっとやさしく、唇が触れた。
温かくてやわらかくて、しっとりとしたそのキスに、璃々は知らず涙を流していた。
頬を伝う温かな感触に、初めて自分が泣いている事に気がつく。
「璃々?」
少し慌てた彼の声に、璃々は微笑んだ。
心配してくれている事が、嬉しかった。
優しい彼の声を、好きだと思った。
今まで、どんなに優しい言葉をもらっても、その声が優しくたって、好きだと思えた事なんか一度もなかったのに…彼の声を、好きだと思ったのだ。
「少しずつでも、いい?私…」
「うん、いいよ。少しずつがいい。急ぐ事なんかないんだから」
いつもより早口な彼は、璃々を抱き寄せ、背中をさすってくれる。
「ごめん、キスなんてしたから…」
「違うの…。私…恋をしているんだと思ったの」
「…」
彼は何も言わなかったけれど、照れているらしい事は璃々にもわかった。
「ありがとう…」
彼の腕の中で言ったお礼は、彼の胸に吸収されて、それに反応するかのように、さらにきつく抱きしめられる。
(私たち…ようやく始まるんだわ)
そう。ここは、璃々にとって初めてのスタートライン。
恋は一人では始められないのだという事に今さらながらに気がついた璃々は、彼の背中に両腕を回し、きつく彼を抱きしめ返したのだった。
完