事のあらまし (桜田桜の日常20)
「桜、何があったの?」
少しして、晴夏が抱きしめていた腕を緩めてそう聞いた。
「あの…」
彼女の温もりにホッとして安心しきっていたが、ここは調理実習室だ。
急に恥ずかしくなり、桜は「大丈夫です」とかみ合わない返事をする。
「とてもそうは見えないんだけどね。君、さっきまで顔が真っ青だったよ?何かあったんでしょ」
晴夏は心底心配そうに、桜の頬を両手で包む。
まるで青かった顔を温めて貰っているようで、桜は一気に赤くなった。
「話してくれないなんて、寂しいな…。私は信用できない?」
真っ直ぐに瞳を見つめた状態でそう言われ、桜は小さく頭を振る。
「じゃあ、話してくれる?」
反射的に頷くと、晴夏は「よし」と桜の頬から手を離し、立ち上がった。
「桜田、少し先生と話そうか」
少し離れた場所で様子を見ていた中瀬先生が、桜の側へきて身をかがめる。
「立てる?」
「はい…」
あれを先生からも見られていたなんて…。桜はあまりにも恥ずかしくて、今すぐ戸を開けて逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
声も消え入りそうに小さくなってしまい、それを先生は余程怖い目に遭ったと解釈したらしい。
「あまり大丈夫じゃなさそうね…。晴夏、あんた付き添って」
「分かりました」
「ちょっと準備室で話しましょう。凛子、部活の方よろしくね」
「はい」
名前の通り凛とした声が響くと、中瀬先生は視線で桜を促した。
「桜…」
「大丈夫です、立てます」
心配顔で手を差し出そうとする晴夏に笑って見せ、桜は立ち上がる。
三人で実習室を出、準備室に入った。
一面の棚にはズラリと本や資料が並び、机が一つと、丸椅子がいくつか置かれている。
先生は机の前に椅子を二つ用意すると、桜に座るよう言った。
桜が腰かけると、自分も正面に座り、桜の傍らに立つ晴夏にちらりと視線を向ける。
「先生、私はここで」
晴夏が桜の肩にそっと手を置くと、中瀬先生は「そう」と言って桜の目を見つめた。
「何があったか、教えてくれる?」
その声色は優しいが、有無を言わせぬ響きがある。
「あの…二年生三人に、待ち伏せされたんです。でも多分、向こうはちょっとからかってやろうくらいの気持ちだったと思います。『こんな所で酷い事はしない』とか言っていましたし…」
「うん。それで?」
「それで…いろいろ言われたんですけど、掴まれそうになったので、とっさに反撃しました」
「反撃?」
中瀬先生と晴夏の声が重なった。
「え、そうなんですか?!」
先生の言葉に、晴夏が大きな声を上げる。
「うん。入部者の履歴書確認した時に見たよ。晴夏は知らなかった?」
「はい」
「まあ晴夏は履歴書まで見ないし、まだ今日彼女になったばかりだから無理ないね」
「先生、冷やかさないでください」
「ごめんごめん。…それで、話を戻そうか。反撃して、その後は?」
「えっと、ビックリしてたのでその間に逃げました。でもだからあの、俺は何もされてないです。俺は一人投げましたけど…」
過剰防衛だと言われるだろうかと桜は思ったが、先生は何もされていない事にホッとしたようだった。
「良かった…。校内で暴行事件なんてなったら、大変な事になるところだったよ」
「すみません」
頭を下げる桜に、「桜田が謝る事じゃないでしょ」と中瀬先生は言う。
「だいたい、一人相手に三人で絡むなんて卑怯でしょ。相手、知ってる生徒だった?」
「いえ、知りません」
「そう。分かれば、厳重注意するんだけど。相手、男子よね?」
「そうですけど…なんで分かったんですか?」
「そりゃ、『こんなとこで酷い事しねえから』とか言うなら男でしょ。掴みかろうとしてきたくせにね。桜田、見た目が細くて可愛いから反撃されるとは思わなかったんでしょうけど…だからこそ、何する気だった?って問いただしたいわけよ、私としては」
中瀬先生は憤慨して腕組みする。
「あの…でも何もされませんでしたし、俺の方が投げ飛ばしてしまって…」
「相手、ケガしたの?」
「下が廊下だったので打ち身くらいは…。加減はしましたけど」
「そう、だったら大丈夫ね。待ち伏せして襲おうなんて卑劣な事したんだもの、打ち身くらいいい薬よ。桜田、相手が分かったら報告するのよ。こんな事、彼らの為にもならないから」
「分かりました。でも多分、襲おう…とまではしてなかったと思います」
「酷い事はしないって言ってたから?」
「はい」
「でもその発言自体が嫌らしいよね。変な目で見られなかった?」
「……」
確かに嫌らしい目で見られはしたが肯定できずにいると、中瀬先生は溜息をついた。
「やっぱりね…。桜田、これからは十分気をつけるのよ。学校でもそうだけど、君って一人暮らしだし、登下校中もね。それからこの事は、学年主任に報告します」
「えっ」
「当たり前でしょ?場合によってはご両親にも連絡するからね」
「…」
できればそれはやめてほしいが、下手に言うと怒られそうで、桜は口をつぐんだ。
「さ、部活に戻ろうか。それとも今日はもう帰って休む?」
「いえ、部活に戻ります」
「そう?動揺して指ケガしたりしない?」
「大丈夫です!」
「分かった、じゃあ部活に戻ろう」
立ち上がりながら、中瀬先生は「桜田、ほんとに実習好きだね」と笑う。
「いっつも目キラキラさせてるもんね。覚えるのも早いし、何か調理系の職に就きたいの?」
「え?いえ、まだそこまで考えてません」
「ふうん、そっか。ま、料理は覚えて損はないからね。そのうちご両親に何か作ってあげるといいよ。きっと喜ぶから」
「はい!」
準備室を出ると、晴夏が耳元でこそっと「無理はしないでね」とささやいた。
「あっ、はい」
「後で話したいから、部活の後、待っててくれる?」
「はい」
頷くと、晴夏は桜の肩をぽんっと叩き、ニッコリした。
「じゃあ、約束」
晴夏に小指を出され指切りまでして恥ずかしかったが、先生は先に実習室に入っていたので、桜はホッとした。
「桜、頑張ろうね」
「はい」
「よし!入ろう」
晴夏に背中を優しく押され、桜は実習室に入った。