3.弟からの電話(猫のほっぺと僕の日常)
ほっぺはオス猫だ。一才になる前に貯めたバイト代で去勢手術をした。
ほっぺは普段家にいて、たまに外へ散歩に行かせる。 アパートの近くに車道はあるものの、基本的に田舎だから遊びに行く場所もちゃんとある。
ほっぺは賢い猫で、車が来ないのを確かめて車道を横断する姿を見た事があるから、轢かれる心配もしていない。
「なーほっぺ。ほっぺは、僕に恋人できてほしい?」
家でくつろぎながら、僕はほっぺにそう聞いてみた。
「にゃーん」
「え、できてほしいの? 何で?」
「うにゃーん」
「僕に恋人できても、ほっぺは嫉妬しない? 寂しくない?」
ほっぺを抱き上げ顔を見つめると、彼は「うわー」と鳴いた。
「ほっぺが人間の女の子だったら、お嫁さんにするんだけどなぁ」
「…」
ほっぺは何も言わず、ゴロゴロと喉を鳴らし始める。彼は抱っこが大好きなのだ。
前にテレビで『猫は人と目を合わせない』と言っているのを聞いた事があるが、それはちょっと違う。確かに、野良猫は人と目が合うとサッと逸らし、逃げる事が結構ある。
が、ちゃんと信頼関係が築けている間柄であれば、むしろ猫の方からこちらの顔を見つめてくるし、目だってちゃんと合わせられる。じっと見つめ返されると、僕はとても嬉しい。信頼されている証みたいで。
「ちゃんと食べられるくらいなら特に料理が上手くなくてもいいから、ほっぺをかわいがってくれる女性と付き合いたいな」
「うにゃん」
「おー、ほっぺもやっぱりそう思う? もしもほっぺを苛めるような性悪女だったら、フーしてやるんだぞ」
「うーん」
「猫パンチしてやってもいいからな」
「うーん」
猫はかなりおしゃべり上手だ。話していると寂しさなんて感じないし、とても楽しい。
だからますます、恋人がいなくても平気になっちゃうんだよな…なんて、ほっぺに責任転嫁する訳じゃないけど、真面目な話、彼女ができたと母に報告できる日はまだまだ遠そうだ。
ほっぺと遊んでいると、スマホが鳴った。
弟の灯路(ひろ)からだ。電話なんて珍しい、と思いつつ出ると、「実音(みお)~ヘルプ!」と、半泣き状態。
「どした? まさか酔ってんの?」
「酔ってねぇよ! 俺一応、まだ高校生!」
「いや、一応じゃなくて高校生だろ。で、どした?」
「もうすぐテストなんだけど、英語がやばいんだよ! 成績上げないとスマホ没収だって親父言うし、マジ助けて!」
灯路は中学までは遊んでいても成績が良く、教師に勧められるまま近くの進学校へ入学した。
遊んでばかりだったにも関わらず本人が拒まなかった理由は、家から近いから。バスや電車に乗って行かなくていいというところに惹かれたらしい。
僕と兄もその学校のOBだ。兄は本当に頭が良くスポーツも万能で、野球部に所属していた。僕はスポーツはそこそこで、運動部には入っていなかった。妹もいるが彼女は他の学校へ進み、今は大学生だ。
そして灯路は、現在高一。進学校だし、さすがに遊んでばかりはいられないらしい。
僕が家を出てもう六年近く経つ。たまに実家に帰る事はあっても、灯路がどんな学校生活を送っているのかはよく知らない。
塾に通わず合格したって事は分かっているけど、正直、彼の学力がどれくらいなのか把握できていない。
「成績はどれくらい?」
僕の問いに、灯路は「平均70」と短く答える。思ったよりいいじゃないか。
「親父がさ、『頑張ってそれなら文句はない。でもお前は遊んでるだろ。もっと真面目に勉強して、平均80は取れ。でないとスマホは没収だ』っていつになく大真面目に言うんだよー!」
「それは仕方ないな。でも、遊んでばかりで平均70なら、真面目に勉強すれば90でも狙えるんじゃない?」
「それがダメなんだよー! 俺、理数系でさ! 英語がマジで苦手なの! その点、実音は外大出じゃん、英語専攻だったじゃん! 文法教えて! あと、作文の仕方!」
「作文の仕方?」
「俺、中学までは教科書を丸暗記してたわけ! 前はそれでどうにかなったけど、今の先生、必ず英作文をテストに出すし、点数配分が大きいんだよ!」
「ああ、成程」
確かに、英作文は教科書を覚えるだけでどうにかなるというものではない。――が、丸暗記なんて芸当ができる時点でかなり頭がいいのだし、頑張ればどうにでもなるはずだ。
「だからさ、実音! 週末そっち行くから、教えて欲しいんだけど!」
「いいけど、今週?」
「早く行かないとヤバいの! どうせ実音、彼女いないし大丈夫だろ!」
「それはそうだけど。そういう問題じゃなくて、僕今週末は仕事だから」
「あ、それは気にしなくていいから。実音がいなくても昼飯ぐらい食えるし、家帰って来てから教えてくれれば、後はちゃんと自分で勉強するから。ほっぺの世話と風呂洗いとかもするし!」
「分かった。ちゃんと父さんに許可貰うんだよ」
「オッケーオッケー! 実はもう許可貰ってあるんだ」
「手際がいいね。もしかして、父さんから僕に教わるように言われたの?」
「言い出しっぺは俺! 親父は『実音に教わるなら安心だけど、都合もあるだろうから大丈夫だって言われたらそうしろ』ってさ」
「そっか。じゃあ、父さんに『僕は大丈夫だから心配しないで』って伝えておいて」
「分かった! サンキュー実音! じゃ、金曜の夕方の電車でそっち向かうわ! 多分、着くのは七時過ぎくらいになると思うから」
「OK。駅まで迎えに行く」
「お願いしますー! お礼に何か奢るから!」
何がいいか考えとけよ!と元気よく電話を切る灯路に、僕は思わず笑ってしまった。
弟が頼ってくれる上に、勉強を教える約束でこんなにも喜んでくれるのだ。兄として嬉しいし、嫌な気なんてするはずがない。
「ほっぺ、週末は灯路兄ちゃんが来るよ!」
「にゃーん」
ほっぺも嬉しいらしく、ゴロゴロと甘えながらの返事だった。