夕雨とドライブ《前》 (岩尾七海とSevenSea3)
「夕雨、おれだけど」
七海が部屋のドアをノックすると、中で動く気配が伝わってきた。
少しして、ガチャリとドアが開く。
「お前、返事くらいしろよな」
「…何?」
「これからドライブに行くんだけど、一緒に行くか?」
「今から?」
夕雨は眉をひそめた。七海は帰りが遅い事はあるが、夜にドライブへ出かけた事はない。
「家と美容室を行ったり来たりするだけじゃもの足りなくってさ。せっかくの愛車がもったいないだろ」
「…ああ」
夕雨の表情が少し和らいだ。確かに、と納得したようだ。
「父さんたちにも言ってある。もし一緒にいくなら、支度して降りて来いよ」
夕雨は頷くと、部屋の中に戻る。ドアは開けたままだ。机の上のスマホを手に取るのが見えた。行くつもりのようだ。
七海は嬉しくなって、口笛を吹きながら階段を下りた。リビングの家族に、「行くみたい」と短く報告する。
「え、マジで」
伊風が驚いて目を丸くした。
「あいつ、意外と素直じゃん」
夕雨が下りてくるかもしれないので、伊風は七海の耳元に顔を寄せてそう言った。
「おれ、嫌われてる訳じゃないみたいだな」
七海も小声で返す。上着のポケットに免許証とスマホを入れ、カバンに放り込んだままになっていたキーを取り出した。
「そりゃ、嫌いってのとは違うだろ」
「おれ、兄貴認定されても平気なんだけどな」
「夕雨に言ってやれよ」
「そうだな」
ヒソヒソと話していると、階段を下りてくる音がした。すぐに現れた夕雨に、七海は「行くか」と笑顔を見せる。
「…一緒に行ってくる」
「そう、行ってらっしゃい」
「気を付けてな」
「うん、行って来ます」
七海は夕雨と一緒に家を出た。
「どこ行くの?」
車に乗り込み、シートベルトを締めた夕雨がそう言った。車内で声が響くせいか、家で話す時よりも大きな声に聞こえる。
「どこにしようかな。適当に市内方面に走らせるか、海に行くか山に行くか」
「…山って何もないんじゃ」
「上から見下ろす景色は綺麗だと思うよ」
「…海は?」
「今日は月が出てるから、水面が光って神秘的かもね」
「……」
夕雨は黙り込む。どちらにするか迷っているらしい。
「な…あんたはどっちがいいの」
(な? 七海?)
名前を呼ぼうとしたらしい夕雨に、七海は嬉しくなった。顔をのぞき込みたくなるが、逃げられても嫌なのでぐっと我慢する。
「そうだな、じゃあ海にしようかな」
「…いいよ」
「じゃ、行くか」
エンジンをかけ、出発した。
車の中は静かだ。お気に入りの曲をいつもより低めにかけると、夕雨は「好きなの?」と聞いてきた。
「うん、好きだよ」
「…俺も好き」
「そっか、やっぱ兄弟だな」
「…別に、兄弟でも好みはそれぞれだろ」
「はは、そうだな。夕雨は賢いな」
「そんな事ないし。て言うか…俺って、すっごいガキ?」
「ん?」
「すっげー気遣われてる感」
「あー、それが嫌なのか」
思わず口走った七海に、夕雨は視線を向けてくる。
「……俺だけ、家の中ですげーガキじゃん」
「確かに年は離れてるけど…ずっとそう思ってたのか?」
「姉さんは結婚して子どももいるし……俺、まだ高校生なのにおじさんで」
「抵抗あるんだ?」
「…ないよ。そこまでガキじゃないよ」
ぷい、とそっぽを向く夕雨がとても愛しくて、運転中でなければ抱きしめたいくらいだった。
「おれは甥っ子姪っ子できて嬉しかったなぁ。すごく可愛いし」
「可愛いのは可愛いよ。どうしていいか分からない時もあるけど…」
どうしていいか、分からない。
夕雨の言葉が、スッと七海の心に落ちた。
(やっぱりそうだったんだ)
七海に対しても、夕雨はどう接していいか分からなかったのだ。
(おれがもっと早く歩み寄れば良かったのかな)
去年、夕雨は受験だった。そんな時期に無理をしてますます関係をこじらせるのも嫌だったし、焦ってはいけない、という気持ちが強かった。
物事には、最善の時がある。今こうして話せているのだから、きっとこのタイミングで良かったのだ。
「夕雨は、おれをどう呼びたい?」
「え?」
七海の突然の問いに、夕雨は戸惑った声を上げた。前を見て運転していても、彼がじっとこちらを見つめているのが分かる。
「七海、七兄、兄貴、姉貴。どれでもいいよ」
「…姉貴は無理だと思う」
「うん」
「兄貴も…ややこしい」
「そっか、伊風のこと兄貴って呼んでるもんな」
「……」
再び黙り込む夕雨を、七海はじっと待った。
「――七兄」
少しして、夕雨は思いきったようにそう言った。
「ほんとにそれでいい?」
「だって、呼び捨てはさすがにちょっとだろ」
七海の問いに、ムキになったような答えがすかさず返ってくる。
「おれは別に構わないけど。伊風だって、七海って呼んでるだろ」
「けど、俺はすごい年離れてるし。それにあの人だって、あ……七兄がいないところでは、兄貴って言ってる」
「おれの事を兄貴って? マジで?」
「マジで」
「それなのにおれの前では名前で呼び捨てって、やっぱり今でも対抗心あるんじゃねえか!あのカッコつけめ」
「あははは」
荒っぽい口調になった七海の言葉に、夕雨は声を上げて笑った。