7.悪夢《前》 (葉蘭万丈!)
何だろう、とても気持ちがいい。
少しして、それが誰かの手だと気づく。そっと、優しく、髪を梳くように撫でられている。
誰だろう…? 親父……?
目を開けて確認したいのに、瞼がひどく重く、それさえも億劫だ。
「う…」
「大丈夫だ、怖くない。親父さんも俺も、そばにいるよ」
「ん…」
そうか、親父がそばにいるのか。
だったら良かった。
安心したら、また意識が沈んでいく。
ー☆ー
「おはよう、目が覚めた?」
どれくらい経ったのか。目が覚めて辺りを見回した時、窓からはカーテン越しに明るい光が差していた。
「おはよう…」
「うん、おはよう」
挨拶してくれたのは、森で犬のそばにいた彼だった。
こげ茶色の髪と瞳。やはりとても大きいけれど、声も目も、とても優しい。
思わずほっと息を吐く俺に、彼は微笑みながら、そっと腕を伸ばす。
何だろう、と一瞬身構えたが、彼の大きな掌は俺の額に触れた。
「うん、熱も下がったね。良かった」
「え…熱…?」
滅多に発熱なんてしないのに。
「随分とストレスを受けていたみたいだからね。四十度近くあって心配したけど、一日で下がって良かった。薬が効いたのかな」
四十度と聞いて驚いたが、薬なんて飲んだ覚えがない。
そう言えば、手首から管が繋がっている。点滴を受けていたのか。きっと薬もその中に入っていたのだろう。
「君のお父さん、カエデさん、彼は君よりも重症だったんだ。まだ意識も戻っていないけど、運び込まれた時よりもかなり良くなってるそうだ」
「そうですか…」
意識が戻っていないのは心配だが、良くなっているなら少しは気が楽だ。
「お父さんの事は心配だろうけど、まずは君が元気にならないとね。お粥を食べてみるかい?」
「あ、お願いします…」
ぺこりと頭を下げると、彼はホッとしたような表情で微笑み、「すぐに持ってくるよ」と部屋を出て行く。
一人になった途端ぼうっとして、よく親父に作っていた、卵とネギのお粥を思い出した。食欲がない時も、あれを出すと親父は大喜びだった。
「親父…」
すぐに様子を見に行きたくなって、上半身を起こした。いつもより体が重いのは、熱があったせいだろう。布団から抜け出そうとして、親父がどこの病室にいるのか知らない事に気がついた。
「お、食欲あるみたいだね!」
茶髪の彼が、お盆を手に戻ってきてそう言った。俺が起き上がっているのを見て、食べる気満々だと勘違いしたらしい。
「あの、食事が終わったら親父のところに行けますか?」
「もちろん。でもその前に、食べたらひと眠りした方がいいよ。お医者さんも、そう仰っていたからね」
「でも俺…」
「さっきも言っただろ? まずは君が元気にならなきゃ。今は薬で熱も下がっているけど、無理をしたらまた高くなるかもしれないし」
何だか親父と会わないように仕向けられているような気もしたが、しかし彼の言う事は確かにそうでもあるので、俺はとりあえず頷いた。
ここは言う事を聞いておいて、もしもまた会う事を先延ばしにされたら、その時に親父を探しに行こう。
そこまで考えて、ふっと不吉な予感が脳裏をよぎる。
「――親父は、生きているんですよね?」
「生きてるよ」
「でも、意識は戻っていない」
「そうだ」
「では、一体何をもって良くなっていると言えるんですか?」
「呼びかけに若干の反応があるんだ。意識までは戻っていないけど、体は反応している。だから意識が戻るのもそう遠くないだろうと聞いてるよ」
「本当ですね?」
「もちろんだよ」
「分かりました。それなら、食事をしてひと眠りしたら、親父に会わせてもらえますよね?」
「うん、もちろん」
彼はすぐさまそう返事をしたが、その表情が微かに曇ったのを、俺は見逃さなかった。
「今、嘘をつきませんでしたか?」
「えっ、どうして?!」
驚いているところを見ると、どうやら図星のようだ。
「親父は生きているけど、会わせてはもらえない。違いますか?」
「そ、それはっ……」
彼が言葉に詰まった時、コンコンとドアをノックする音が響き、オリーヴァが入ってきた。
「ハラン、目が覚めて良かった。体調はどうだ?」
微笑みかけられ、俺は多少毒気が抜けて息をついた。茶髪の彼は、あからさまにホッとしている。分かりやすい人だ。
「体がいつもより重いですが、もう起きれます」
茶髪の彼よりも上司であるオリーヴァに話をつけるべきだと判断し、俺はそう言った。
「そうか、それは良かった。ジェームズ、突っ立ってないでハランがお粥を食べられるように用意しろ」
「あっ、すみません!」
彼はそう言って手にしたお盆をいったんサイドテーブルに置き、ベッド用のテーブルを移動させてセットした。その上にお盆を置き、ニッコリと微笑みかけてくる。
「ジェームズって、犬と同じ名前ですか?」
「あ、気づいたんだ? 実はそうなんだ。たまたまだけどね」
ハハハ、と笑い声を上げるが、多少大袈裟で、オリーヴァが眉をひそめる。
「どうしたジェームズ。何を動揺している?」
「ど、動揺なんてしてませんよ先輩! やだなぁ」
「やっぱり動揺しているな。ハラン、何かあったのか?」
「え、そこで俺じゃなくてハラン君に訊いちゃいます?」
「お前はどうせはぐらかすだろう」
オリーヴァはぴしゃりと言って、俺の顔をじっと見つめる。
「親父に会わせてもらえない理由は何ですか?」
俺の問いに、オリーヴァは驚いた顔をした。それからジェームズの方を向き、「まだ話すなと言っただろう」と厳しい声を出す。
「えっと…」
「すみません、俺が問い詰めたんです。彼を叱らないでやって下さい」
俺の言葉に、オリーヴァとジェームズが同時にこちらを向き、まじまじと見つめてきた。
「ハランお前、いくつだ?」
「十六です」
「十六……」
二人同時に呟いて、何やら考えている表情を浮かべる。
「俺、すごく子どもだと思われていましたか?」
「すごく……ではないが、十歳くらいだと体格から判断した。それにしてはしっかりした子だと思ったが…十六か」
「髪の色も黒いし、あの森にいた。やっぱりこれは、どうしても報告がいきますね」
「……そうだな」
二人の表情が暗く沈むが、俺は訳が分からない。
「あの、何か問題でもあるんですか?」
「その話は、お粥を食べてからにしないか?」
「話を聞かない限り、何も食いません」
「じゃあこうしよう。ハランが粥を食い始めたら、俺も話をする。どうだ?」
「分かりました。いただきます」
合掌してスプーンを取り、お粥を掬う。粥と言うより重湯だ。
口にしたそれは、塩気がかなり薄く感じられた。親父だったら文句を言って食べなさそうだ。
「これ、病人用に塩薄くしてあります?」
「ああ、そうかもしれないな。不味いか?」
「そうではないですけど、俺の味覚がおかしいのか、元々味が薄いのか、どっちだろうと思って」
「さあ、分からないが我慢して食ってくれ。完食できたら次からはスープも出るそうだ」
「そうですか」
相槌を打って二口目を食べるが、二人は黙って俺を見ている。
「話してくれないんですか?」
「もちろん話す。やれやれ…」
オリーヴァは俺の隣に丸椅子を持ってきて腰を下ろした。ジェームズは少し離れて心配そうな表情を浮かべている。そんなに話しづらい内容なのだろうか。
「ハラン、落ち着いて聞いてくれ」
「はい、どうぞ」
「………親父さんの意識が戻っていないというのは嘘だ」
「……は?」
俺は重湯を掬ったまま動きを止めた。
「親父さんは……一度目を覚ました。ここに運び込まれた時、寝台に二人並んで寝かされたが、君はずっと彼の手を握っていた。それで――彼は一度、目を覚ましたんだ」
「……それで?」
だったらどうして、嘘をついたのか。疑問はあるが、先を促す。
「それで…彼はじっと君を見ていた。俺達に気づくと、驚いたような顔をして、『こいつだけは助けてくれ』と懇願した。『俺はどこに売られてもいい、だがこいつだけは見逃してくれ』と」
「く……」
聞いているジェームズが苦しそうな声を出す。一体何があったと言うんだ。
「彼は混乱していた。俺達は人買いではないと説明したが、そこへ医者がやって来た。……ここは国の経営する秘密病院で、一般の患者が来る事はない。医者も、国から直接雇われている形だ。だから決して、上からの命令に背く事はできない。それがどんなに、受け入れがたい事だったとしても」
「まさか……」
先程の、嫌な感覚を思い出す。心臓がドクリとして、背中を冷汗が伝う。
「違う! 命を奪われる事はない。むしろ、必ず助けようとするはずだ!」
俺が何を考えているのか察したらしいジェームズが、叫ぶようにそう言った。今にも泣きそうな表情で、命は助けてもらえたとしても、相応の代償があると目の前に突き付けられたような感覚に陥る。
「ジェームズ、落ち着け。お前が取り乱してどうする!」
「す、すみませんっ」
「……いいですよ、話して下さい。殺されるよりはマシでしょう」
「ハランお前…」
オリーヴァは悲しそうな苦しそうな表情を浮かべ、一度目を閉じた。話すのにも覚悟がいるような事なのか。俺も覚悟するべきなのだと悟り、同じように目を閉じる。
「――この国にも近隣の国にも、髪と目が黒い人種はいない。それどころか、現時点で確認できている国のどこにも、そんな人間はいないんだ。だからカエデは――」
「……そういう事か…」
俺は目を開けて、オリーヴァを見た。
「親父は……自ら受け入れたんだな」
「うっ…」
ジェームズが嗚咽を漏らしそうになり、慌てて手で口を覆うのが見えた。
「モルモットになる事を、受け入れたんだな」
「そ、そんな言い方!」
「やめろジェームズ!」
「だって、辛すぎますよ! ハラン君っ、そんな言い方するなよ! 自分でそんな言い方して、ますます辛くなるじゃないかっ!」
「だったら、黙ってれば辛くないとでも?! ふざけんな、俺はここがどこかだって知らねぇんだよ! それをいきなり、『珍しい人種だから』って理由で引き離されて、もう二度と会えないだと?! それならいっそ、俺を連れてけよ! 人体実験でも何でも、俺ですればいいだろうが! 親父は病気なんだぞ!」
「ハラン!」
「親父は言ってた、もう先が長くないかもしれないって! だから借金取りからも一人で逃げろって、だけど俺にはそんな事できなかった! あの人がいなかったら、俺はいなかった! 必死で背負って逃げて来たんだ、助けてくれるって約束したのに、もう二度と会えないとかふざけんな!」
「ハラン!」
「親父に会わせろ! モルモットなんて絶対に――」
「ハラン、ハラン!」
ガクガクと体を揺すられ、俺はすーっと意識が遠のいた。